原谷苑・村岩農園の紹介と台杉・北山杉・桜苗木の販売 【原谷苑公式ホームページ】

原谷苑の歴史

【江戸時代】
北山杉の里中川において、山林業の高畑家の房次郎の五男として、高畑岩次郎生まれる。


【明治 初め】
材木商《柴定》村瀬家に婿養子に入るが、跡取娘の先妻をなくしたのがきっかけで、生家の職に戻りたく思い、村瀬の姓を頂戴し、村瀬岩次郎として鷹峯に居を構え、山林業の《村岩》を起こす。


【明治37年】
村岩二代目常太郎生まれる。


【大正14年】
村岩三代目 巌 生まれる。


【昭和 初め】
花の好きな二代目が、鷹峯土天井町(松野醤油店の北側)に梅・桜・紅葉などの樹木を植え農園を創めるが、加賀前田公爵の別荘を建てたいとの要望によりその地をお譲りしたため、何処かに花を植える場所が無いかと探していたところ、原谷開拓団の方からお話があり現在の村岩農園の所在地を得ることとなった。


【原谷開拓団】
終戦後、満州から引き上げてこられた方々が国より山林とは言え京のゴミ捨て場状態の荒地の開墾を命じられ、開拓団として入植されたが、火葬場の裏山でもあり余りの辺境さに一夜にして逃げ出された家族もおられたし、残って開拓に一心不乱に取り組まれた方々も果樹園や農園、牛の放牧や養鶏等にも取り組まれたのですが,中々開拓の成果も上がらず、困り果てた方よりお話が有り原谷乾町の一角を譲り受ける事と相成りました。その際には、阪急電鉄から原谷全地域を譲り受け第二の宝塚化計画のお話も持上がっていたのですが、開拓団の都合により立ち消えになりました。


【昭和28年】
村岩四代目浩司生まれる。


【昭和32年】
開拓団員の堀井氏より農地開拓途中の現村岩農園を開拓を続行することを条件に譲り受ける事となる。


【昭和33年〜】
譲り受けた土地が、養分も無く、がらくたゴミ捨て場だった事もあり、農作物がまったく育たないので、色々な種類の樹木を植え込みました。桜・紅葉・つつじ等の観賞木、梅・桃・柿・栗・林檎・サクランボ・柚子等の果樹木、数十種類の樹木を植え込みました。また、土を入れてサツマイモやスイカ等の耕作も試みましたが上手く出来ず、沈丁花等全滅した花もあり、紅葉や果樹木等はほとんど根つか無い中、桜の種類は順調に育ちつつありました。当初は、親戚・友人等の身内だけで、花見を銘打った食事会で自家製の鶏肉・野菜ですき焼き鍋を楽しんでました。


【昭和40年頃〜】
二代目常太郎が、農園内の桜苑の真ん中に隠居し、農園内の木や花の手入れを日々楽しみながら過ごして居りました。其の内、人伝に評判が広がり,桜の時期だけ一般公開するようになりました。桜苑を原谷苑と命名し、その後、苑内の料理旅館を青山荘と名づける。


【昭和60年頃〜】
三代目巌が、山で手入れし育てていた北山台杉を植木販売用に園内に植え込みました。この頃は、台杉の販売も順調でしたが、スギ花粉症の影響で売れ行きが落ち込みます。実際は、差し穂で育てた白杉の台杉は、花が付かないし花粉も出ないのですが。又、この頃から入重紅枝垂れ桜が弱ってきたので、大きく成り過ぎた関山等の人重桜を切る。台風や干ばつで枯死した木の植え替えを順次行う。


【平成元年頃〜】
四代目浩司が中心になり、土壌の養分が無くなって来ているので土の入れ替えを順次始める。土場の改良で新しい品種の草木(山吹・つつじ・林檎・石楠花・ミズキ・桃・沈丁花・木瓜等)を植始める。


【平成10年頃〜】
園内の空きスペースで野菜等を作り始める。平成年夏猪の乱入により根っ子を掘り起こされ、夜毎に寝ずの番…農園の周囲に電柵を張る事に。